依田勉三を偲びつつ帯広をあとにした私たちは、北海道最大の都市である札幌市を訪ねた。そして北海道滞在の最終日、札幌市の中心地にある北海道大学をあるくこととした。広大な北海道大学の敷地内には、西南戦争勃発の前年である明治九年(1876年)に開校されたという北海道開拓の原点ともいえる札幌農学校第二農場が大切にのこされている。この学校は、Boys, be ambitious.(少年よ、大志を抱け)の名文句で有名なウィリアム・スミス・クラーク博士による指導の下、開校と同時に広大な農場が開かれ、北海道への移民者に対して近代的な大規模有畜農業を伝える一大拠点となった。
このクラーク博士の構想は、マサチューセッツ農科大学におけるクラーク博士の教え子であったブルックスらにも引き継がれた。彼らは、この札幌農学校第二農場において、北海道開拓に適した作物や農機具の選定から輸入、栽培方法、さらに経営方法の指導までを実施。北海道農法の構築に大いに貢献した
この札幌農学校第二農場は、北海道全域に畜産を広めた日本畜産発祥の地としての価値と農場建築としての希少価値が認められて国の重要文化財に指定されている。また、平成十三年(2001年)に設立された北海道遺産構想推進協議会により、次世代に遺すべき北海道の自然、産業、歴史、文化、食に至る分野で、道民から応募のあった一万六千件のなかから北海道遺産として最初の二十五件に選定されている。
その著書「武士道」により日本人の精神を世界に問うた新渡戸稲造や「事実の子たれ、理論の奴隷たるなかれ」の言葉で有名な内村鑑三はこの学校の第二期生である。文久二年(1862年)に南部藩盛岡に生まれた新渡戸稲造は、この札幌農学校で学んだ後、台湾で近代農法を指導。児玉源太郎や後藤新平と共に台湾近代化の礎を築いた人物として今なお台湾の人々から親しまれている。さらに京都帝国大学教授、第一高等学校校長を経て、日米交換教授として渡米。国際連盟事務局次長や太平洋問題調査会理事長をつとめるなど、日本を国際社会に繋ぐことに尽力した。
北海道大学の校内には、新渡戸稲造の銅像があり、その台座には、
I wish to be a bridge across the Pacific.(太平洋の架け橋とならん と欲す)
という若き日の新渡戸稲造直筆の言葉が刻まれている。この簡潔な言葉からみても、日本人が持つ高い精神性を世界に伝えて西洋との調和に奔走した彼が、単なるお国自慢ではなく、世界平和を導こうとする高潔な精神で支え られていたことが容易に理解できるのである。公への義務や未来への責任を考えることすら忘れ、個人の権利ばかりを主張してやまない現代人は、新渡戸稲造が世界に伝えようとした武士道を今一度見つめ直し、多くを学ぶ必要があるのではないか。