仁方に隣接して平成十六年(2004年)四月に呉市となった川尻町がある。この川尻町南部の沿岸地域では、上蒲刈島と対峙する美しい海岸線やその目の前にうかぶ柏島などが風光明媚な景観をつくりだしており、北部の山岳地帯では、呉市最高峰となる標高840メートルの膳棚山と標高740メートルの野呂山が睨みあうようにそびえたっている。この野呂山の山頂付近は広大な公園となっており、野呂高原ロッジやオートキャンプ場などが整備されている。この公園からは、南に広がる多島海をどこからでも眺望できる。
川尻沿岸にうかぶ柏島を眺めつつ国道185号線を東へあるいてゆくと公園入口という交差点があり、これを左に曲がると、野呂山山頂にむかってさざなみスカイラインというみちがつづいている。さざなみスカイラインの途中からは、かぶと岩登山コースやどんどん登山コースなど様々な登山ルートがある。かぶと岩登山コースをのぼりつめるとかぶと岩展望台があり、眼下 に広がる多島海を一望できるばかりでなく、天候によっては遠く四国の名峰、石鎚山までをも見渡すことができるという。
山頂の公園に到着するとその中央に野呂山ビジターセンターがあり、これに隣接して明治時代に掘られた氷池という氷を採取するために造られた人工の池がある。冷蔵庫がなかった当時、氷は価値の高い商品であった。私たちの先人は、冬場、この池に張った氷をかついで山道をくだり、海岸まであるいた。そして氷室といわれた氷を貯蔵するための倉庫にいれておき、夏になってからその氷を販売したという。野呂山氷池で採れた氷は、船舶で遠く九州や大阪あたりまで運ばれたと伝えられる。
また、川尻は江戸末期である安政年間から脈々と受け継がれている筆づくりの産地であり、平成十六年(2004年)八月には、川尻の筆が経済産業大臣から国の伝統的工芸品として指定されている。氷池近郊にある野呂高原ロッジに隣接して筆づくり資料館があり、日本一大きいとされる筆塚も建てられ ている。毛筆にはいたちやたぬき、羊などの動物の毛が使われているが、筆づくりのために犠牲になった動物たちの霊を慰めると同時に、その使命を全うした毛筆に感謝する気持ちがこの筆塚に込められているにちがいない。
山頂付近にある星降る展望台に立ち、登山でにじんだ汗を瀬戸内海から吹き上げてくる心地よい風で乾かしつつ、目の前に広がる多島海を望んだ。西にたたずむ倉橋島をはじめ、この山の足元から東へ連なる下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島、大崎上島の形状までが手にとるようにわかる。さらにこれら島々の後方には、白く霞みながらも四国が大きく横たわっていることが確認できる。私たちは何よりもまず、この世界に誇るべき美しき自然と景観そのものを郷土の貴重な財産として守り、次世代に伝えていくべきではないだろうか。