見晴らしのよい檜垣氏の古城、龍王神社に別れを告げ、のぼってきた坂みちを勢いよくくだり、室町時代と江戸時代の村落の違いなどを想像しつつ風情ある古道をあるいてゆくと、神田神社にたどり着く。この神田神社は、毎年秋に開催される賑やかで伝統的な祭を大切にしていることで有名である。正面の鳥居をくぐりぬけ、美しい杜につつまれる石段をのぼった。石段をのぼりつめてふと空を見あげると、初夏の陽ざしをあびたクスノキにやどる無数の葉が、阿賀港から吹き抜ける風に揺られてきらめいている。
神田神社の起源も古い。神功皇后が三韓よりの帰途、豊後の国(現在の大分県)宇佐において、皇子応神天皇を出産。その後、天皇とともに還幸の途上、現在の阿賀冠崎の浜に船を係留した。しかし、連日悪風がつづいたため、阿賀村字神達のうち、神風呂(別称神経)というところで休息。その地続きが現在の宮地とされている。その後、平安時代末期である天永三年 (1112年)五月、安芸郡加賀須崎(別称香津浦)の神経山(別称神風呂山)に社殿を建立して神達八幡と称し、この浦の氏神とした。天永年間(1110~1113年)といえば、鳥羽法皇の勅により、波多見島、江田島、呉浦、矢野浦などが安摩荘として立荘された時期である。これより以前の1100年前後、呉浦の開発領主呉氏が呉浦の未開発地を開発して「呉別府」とし、雑公事部分を石清水八幡宮に寄進していたことから、天永年間以降、皇室領安摩荘呉浦 と石清水八幡宮領呉別府が並存する時期がつづくこととなる。
厳島文書によれば、仁安年間 (1166~1168年)、平清盛が音戸の瀬戸開削工事にあたり、この 神達八幡に奉幣使を遣わして工事成就を祈願せしめたとある。また、永正年間(1504~1520年) には、源盛勝が字神達の森峯に神殿を奉造したことが古い棟札に記 されている。その後、遥かに降っ て明治四年(1871年)になってから、その社号を改めて現在の神田神社と称するにいたっている。
江戸中期である安永七年 (1778年)に再建された拝殿にはいると、天井に掲げられた数多くの絵馬に圧倒される。これらの絵馬には、江戸時代に神社でおこなわれた歌舞伎の様子や当時の生活風景などが描かれており、なか には頼山陽の叔父にあたる頼春風が描いたものや勝海舟がしたためた書もあるという。県の東部に位置する竹原の町並み保存地区內には、神田神社に絵馬を奉納した頼春風が医者を開業していた当時の武家屋敷が春風館として今なお残っている。古くから神社に願をかけるときや祈願成就のお礼として、 生きた馬を奉納する習慣があった が、板に馬の絵を描いてそのかわりとしたことから絵馬の風習が始まったといわれている。江戸中期頃から馬以外を題材とした絵も描かれるようになり、各種の絵馬が誕生した。神田神社に奉納されている絵馬の大半は、江戸中期以降のものであり、そのうち十点は奉 納年代まではっきりと記録されているという。