日本人とはなにかをいま一度考え直すべく、台湾へと旅立った。台北ではまず、ルーブルや大英博物館などにも匹敵する博物館として有名な國立故宮博物院を訪れた。正面にそびえたつ巨大な門には、辛亥革命の英雄である孫文の言葉、「天下為公」(天下を以って公と為す)の四文字が刻まれている。二万点にもおよぶ展示文物は、もともと北京の紫禁城に所蔵されていたものであるが、国共内戦などの戦禍から逃れるため台北へと運ばれ、この博物館が成立するに至った。
台北中心部には、日本統治時代の1919年に総督府として建設され、現在は台湾の元首である総統の官邸となっている台湾総統府が威厳をもってたたずんでいる。塔を中心とした左右対称の美しい建築物である総統府内部は、平日の午前中のみ条件つきで一階ギャラリーを見学することができ、五十年間におよぶ日本統治期とそれ以後の蒋介石、蒋経国、李登輝、陳水扁政権に至る台湾の近現代史がよくわかる設えとなっている。
台湾という響きに接しただけで、不思議なことに「武士道」を思いおこしてしまう。それは、日本統治時代の第四代台湾総督に就任し、台湾近代化の礎を築いたといわれる児玉源太郎の印象によるものかもしれず、同時期、台湾で農業を振興させた、「武士道」の著者である新渡戸稲造のそれかもしれない。あるいは「武士道解題」で日本人に武士道を取りもどせと説いた李登輝の存在によるものかもしれな い。なかでも長州出身の児玉源太郎の印象ははかりしれないほど大きいのではないか
児玉は長州藩士として戊辰戦争に従軍。明治三年(1870年)に陸軍にはいり、佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争で活躍。陸軍次官としてむかえた日清戦争においては、陸軍相の大山巌の出征により、事実上の陸軍相もつとめ た。同二十九年に中将に昇進ののち、同三十一年に第四代台湾総督に就任。八年もの歳月をかけて混乱する台湾の安定化を成功させた。同三十五年からは陸相を兼ね、翌三十六年に内相に就任するが、対ロシア作戦を立案しつつも急逝した田村恰与造を引き継ぐため、異例の降格ながら参謀次長となっ た。同三十七年、日露戦争が勃発すると満州軍総参謀長として各軍の作戦を指導。旅順と奉天の攻略に心血を注ぎ込んだ児玉は、日露戦争終結の翌年である同三十九年、五十四年の生涯を終えた
児玉という人物には出世欲や自己保身のかけらもなく、メッケルをして天才といわしめた能力を公のためにしぼり殺すほどの勢いでしぼりつくし、その短い生涯を終えた。台湾総督時代においてもインフラ整備や教育の充実に 力を尽くしている。彼の生きざまこそが武士道の典型であり、これが新渡 戸稲造に影響を与え、李登輝に受け継がれて、今日の台湾にも色濃く残されていると言えなくもない。われわれは日本人として、児玉源太郎の存在そのものをもっと世界に誇ってもよいのではないだろうか。