桂浜海岸の東側には、桜の名所として有名な万葉公園や長門の造船歴史館がある。造船歴史館中央には全長二十五メートル、幅七メートル、マスト高さ十七メートルの遣唐使船が復元されており、その当時を偲ぶことができる。天然 の良港に恵まれた倉橋町はかつて長門島とよばれ、瀬戸内海航路の要衝として、また全国有数の造船地として大いに栄えた。造船に関していえば、律令時代の遣唐使船をはじめ、江戸時代には諸大名の御座船や弁財船などがこの長門島で建造されている。
遣唐使は、舒明二年(630年)から承和五年(838年)までの十五回にわたり、政治制度や大陸文化導入のため唐(現在の中国) へ派遣された使節である。役人では阿倍仲麻呂や吉備真備、留学僧として最澄や空海が遣唐使船で唐 へ渡っている。遣唐使船の建造は、朝廷から安芸、近江、播磨、丹波、備中へ命じられたが、なかでも安芸の国でその大半が建造された。江戸期に書かれた「芸藩通史」によると安芸の国のなかで倉橋こそがその建造の地とされており、倉橋にある古文書には古代から大船を建造してきたという記載がある。神功皇后や豊臣秀吉の軍船建造の伝説、唐船浜という地名からもこ の地が造船の中心地だったことが推察できる。
呉地域全体が古来より、船舶の材料として最適とされた榑(くれ)という木の大産地であった。律令国家は船の建造を安芸の国に強制したが、その後も一大造船地帯として発展した大きな要因がこの榑という材木の産地であった点にあることがうかがえる。
呉という地名の起源については、九つの山々に囲まれて九嶺とよばれていたことに由来するという説や、古代朝鮮の高句麗の句麗がなまったものであるとする説、さらには三国時代の中国の呉の国との関りを指摘する説などと様々なものがあるが、榑の木をその起源とするものが最も有力なのではないだろうか。
再び南を目指して海岸線のみちをあるきはじめた。新宮神社と権現神社を過ぎると堀切橋という小さな橋があり、この橋を渡ると鹿老渡にでる。鹿老渡はその昔、風待ち、潮待ちの港として栄え、江戸時代を通じて日向藩主が参勤交代の途上に宿泊したり、江戸時代後期には幕末の志士に多大なる影響を与えた「日本外史」の著者である頼山陽なども宿泊したと伝えられる老舗旅館がいまなお残っている。
鹿島大橋を渡り、広島県最南端の島である鹿島の地に足をふみいれた。この鹿島を南にあるきつづ けると宮ノ口という地区にたどりつく。この宮ノ口には「耕して天に至る」という言葉で有名な鹿島の段々畑があり、小高い山の山頂付近にまで積み上げられた石の芸術を観ることができる。このあたりは島嶼部のなかでも特に山と海が密着しており、まことに平地が少ない。明るい茶褐色を帯びた美しい景観ではあるが、急勾配の斜面を畑にするため石を積み上げてきた先人たちの艱難を思うと少し複雑な心境になる。