亀山神社の鳥居をくぐりぬけて坂をくだった。清水一丁目の交差点を左に曲がり、緩やかな坂をのぼってゆくと、かつて亀山神社が存在した場所にある入船山記念館にたどりつく。館内の高台には、明治二十二年(1889年)、呉鎮守府開庁と同時に軍政会議所兼水交社として建てられた英国風の洋館部と和館部からなる旧呉鎮守府 司令長官官舎がある。
官舎から石の坂をくだってゆくと石造りの一号館があり、その裏の林には、昭和十八年(1943年) に海軍によって建立された水交神社や昭和十九年に衛兵によって築 かれた「至誠の碑」が原型を留めて移設されている。古代中国の思想家、孟子は「至誠にして動かざる者、未だこれ有らざるなり」と説いた。この「至誠」という言葉はかつて多くの日本人の心を動かし、歴史を動かしてきた。しかし、戦後欧米からなだれこんできた物質文明と個人主義に侵された私たち日本人にとって、あまりにも聞きなれない言葉となってしまったのではないか。
公園入口の外側は日本の道百選に数えられる美術館通りとなっており、その入口内側周辺には、国 産初の電動親子式衝動時計や東郷平八郎が呉在任中の大佐時代に住んでいた家のはなれを宮原から移築した旧東郷邸がある。東郷平八郎が、この旧宅に住んでいた期間、つまり呉に在任していたのは、明治二十三年(1890年)五月から翌二十四年十二月までの一年八ヶ月に過ぎない。
東郷平八郎は、明治三十八年 (1905年)の日本海海戦において、司令長官として連合艦隊を指揮し、みごとロシアのロジェストウェンスキー提督率いるバルチック艦隊を壊滅させた英雄として歴史にその名を刻んでいる。日露戦争開戦時、閑職についていた東郷は、同じ薩摩藩出身の海軍大臣、山本権兵衛に連合艦隊司令長官として抜擢された。就任後は、秋山真之ら有能な若手を積極的に起用し、信頼して全面的に作戦を任せ、全ての責任は自分でとるといった姿勢を貫いたといわれる。日本海海戦で死ぬつもりであった東郷は、海戦後二十九年を生き、昭和九年 (1934年)、東京都千代田区麹町三番町の自宅で八十八歳の生涯を終える。その国葬では百九十万もの人が棺を見送ったといわれる。
東郷夫妻が五十二年間住んだ三番町の邸宅跡は東郷元帥記念公園となり、公園前には東郷坂、原宿竹下通り脇には東郷神社、墓所がある多摩霊園近くに東郷寺があり、別荘のあった逗子市には東郷橋がある。また、フィンランドにおいてはトーゴービール、トルコにはトーゴー靴がある。なぜ亜細亜と欧 州の狭間にあるトルコにおいて靴に東郷の名が起用されたのか。いつの日か私たちはトルコという国を訪ねてみるべきなのかもしれない。いずれにせよ、これらの事実は、東郷平八郎という人物がいかに多くの人々に敬われ、多くの国々に勇気と希望を与えたかということを雄弁に物語っている。