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天応海道

野間氏の要塞、天狗城の威容と神武天皇臨場の言い伝えを探る

安芸郡坂町と呉市天応町の境界線から国道31号線に沿って南にあるきはじめた。右手には海をはさんで江田島が横たわっており、左手には巨大な岩々でかためられた標高293余メートルの天狗城山がにらみをきかせている。この山には、室町時代を通じて、安摩荘矢野浦とよばれた広大な領域を支配していた野間氏の要塞としての天狗城があった。

野間氏は、伊予の国(現在の愛媛県)出身の水軍であったと伝えられており、南北朝の動乱期に安摩荘矢野浦とよばれた現在の矢野、坂から天応、吉浦、昭和地区までにおよぶ広大な領域を支配下に置いた。同じ時期、現在の呉市街地から広地域あたりまでは、呉衆とよばれた山本氏や檜垣氏、警固屋氏が支配しており、現在の音戸町である波多見とよばれた地域は、竹原小早川氏の領土として乃美氏が治めていた。野間氏は、波多見の領有権を主張して、乃美氏と紛争を繰り返したという記録が残っているが、この天狗城から遥か南にうかぶ美しき波多見の地を眺めることができたにちがいない。

呉市の西の玄関口として風光明媚なこのあたりは、昭和二十六年(1951年)に町制が施行され、天応町となるまでは大屋村とよばれていた。天応の名が起用されたのは、明治三十六年(1903年)の呉線開通にともない開設された天応駅という名が広く親しまれていたためであるが、元来、駅名に天応と名づけられた由来は、皇統譜により初代天皇とされる神武天皇の臨場にちなんで天応神社が建立されたという言い伝えにある。

日本書紀によると、天照大御神から地上支配を託された皇孫は、高千穂の峯に降臨したのち、日向(現在の宮崎県)で三代にわたって暮らしてきた。そして神武天皇の代になって、国土を治めることに適した地が東にあることを知り、大和(現在の奈良県)を目指して東征することとなった。瀬戸内海を東に進み大阪湾に上陸。紀伊の国(現在の和歌山県)を経て熊野から大和にはいった。そして辛酉年正月(紀元前660年)に大和橿原宮で初代天皇として即位する。日向出発から即位まで七年を要しているが、この東征の途上、瀬戸内海に臨むこの天応に立ち寄ったと考えられなくもない。

天応神社はどこにあったのか、そして、今なお存在するのであろうか。天応支所に隣接する田中八幡神社を訪ねてみたが、ここは野間氏の全盛期であった文亀二年(1502年)に勧請されたものと記されている。田中八幡宮の裏手の古道を散策すると、周囲とは明らかに雰囲気の異なる、竹につつまれた小さな丘陵が視界にはいってくる。通りすがりの老人に尋ねるとこの丘の頂上に小さな祠があるという。麓の墓所を抜けて丘の頂上まで駆けのぼると、果たして「天応山神社」と記されたひそやかな祠がかろうじて外観を留めつつも、威厳を持ってたたずんでいるのである。麓から眺める光景とは裏腹に、神社のまわりは不思議なほどに明るい空間であった。