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大浦海道

大浦の来生寺にて親を偲び、日高神社までをあるく

県民の浜から上蒲刈島の東南海岸を北へあるいてゆくと、平成二十一年(2009年)三月に開通予定で、現在架橋中の豊島大橋が見えてくる。さらに海岸線をつたってあるくと大浦という港まちにたどりつく。この大浦には来生寺という浄土真宗本願寺派の寺がひっそりとたたずんでいる。来生寺の静かな境内を散策すると浄土真宗の開祖、親鸞聖人の立像がある。立像の後ろには少し古い親鸞の像が横たわっているが、これは先の鳥取沖地震で倒壊したものとある。

親鸞は、承安三年(1173年)に京都の伏見にて皇太后宮の大進、日野有範と清和源氏の八幡太郎義家の孫娘である吉光女の長男として誕生した。二十年におよぶ比叡山での修行のあと、浄土宗の開祖である法然の専修念仏の教えに触れて入門する。親鸞は、法然を師と仰いでから生涯を通じて、真の 宗教である浄土宗の教えを継承し、これを高めていくべきと考え、開宗する意思はなかったと考えられる。

安芸の国は、安芸門徒という言葉があるように、今なお浄土真宗が根付いている地域である。この浄土真宗は絶対他力を強調し、人々は全て弥陀の本願にすがれば極楽往生できると唱えたもので、親鸞の弟子唯円がまとめた歎異抄に述べられる親鸞の往生説、悪人正機説では、絶対他力の阿弥陀仏の本願 は善人よりも煩悩の多い悪人に対して深く、悪人の自覚ある者こそ往生が可能であると説かれている。

豊島に渡ることができるフェリーの発着港である大浦港付近に、海にむかって鳥居がたたずんでいるが、その先には石段と石垣があり、日高庄神社と書かれた数多くのぼりや笹の木に彩られた数艘の船が係留されていた。やがて赤い法被を身にまとった若者たちが続々と船に乗り込み、勢いよく海原へ飛び出したが、これは古より伝えられる豊漁を願って毎年開催される祭であろう。

日高神社と刻まれた鳥居の先には急勾配の山道がつづいており、これをのぼってゆくと日露役記念碑と北清役記念碑がある。さらに苔に覆われた石段をのぼりつめると、たしかに荘厳な日高神社が存在した。かなり高い山の上 と思われるが、鬱蒼とした木々に囲まれており、眼下に広がるはずの海を 望むことができない。

かつては日高庄八幡宮とよばれていた日高神社は、応仁の乱勃発の九年前である長禄二年(1458年)に創祀され、江戸初期である元和六年(1610年)に勧請された、宗像三女神や品陀和気命、息長帯日売命を祀る神社である。中世において、蒲刈島と仁方、川尻を含む地域は日高庄とよばれていたらしく、その総鎮守社であったことから日高庄八幡宮と称された。神社の背後にたたずむ山は、中世に存在した八幡山城跡とされ ているが、あるいは下蒲刈の丸屋城を本拠とした多賀谷氏の支城であったものかもしれない。